2006-01-01から1年間の記事一覧

大変ご無沙汰いたしました。

1年の締めくくりにと、久しぶりに日記を開けてびっくり暑中見舞いが出てきてしまいました。 平成18年は私にとってとても有意義な年であったと思います。それはお仕事も忙しく順調に運ばせて頂いた事もありますが、すべての事柄に対して、心から感謝出来る…

暑中お見舞い申し上げます

暑中お見舞い申し上げます

環境センター見学

環境センターを見学しました。

カッセル市のエコロジー団地

カッセル市役所を表敬訪問して、環境保全局の方から省エネ集合住宅についてのレクチャーを受けました。カッセル市街地から3キロいった所に当時5300人が住むエコロジー団地がありました。その設計者の一人ヘッガー氏のお話では此処は大陸性気候のために…

エッセン総合大学環境教育センター訪問

エッセン市内の環境に配慮した市街地再整備計画の現状を視察し、その後エッセン総合大学環境教育センターを訪問し、ドイツの環境教育の経緯と実践について、レクチャーを受けました。その時耳に残ったことは環境教育を出来る教師の育成がまず先決であり現在…

ケルン市内の大聖堂に大感激!!

総勢18名9月2日成田空港からパリを経由してフランクフルト空港に到着、ホテルで頂いた食事の塩からく半分も頂けなかったという、つまらない事を覚えています。そこに宿泊し次の日バスでリュ-デスハイムに行き、そこからザンクトゴアズハウゼンまで、ライ…

憧れのドイツへ!!

1995年の4月から東京都の環境教育リーダーの養成と言うことで、第2期生として新宿の当時、東京都の施設に通っておりました。そんな事から講義を受けていた東京学芸大学教授の小澤紀美子先生の先導で、”ドイツの環境教育と環境保全活動”の視察に一緒に…

葛飾区役所雨水利用のモニター制度発足!

葛飾異業種交流会雨水利用分科会で防火用水も兼ねた雨水タンクの試作、開発に向けて会合を重ねた結果、1995年6月に第1号雨水タンクが完成しました。 名前を大きなダムより軒先の各家庭で使えるミニのダムを!と言う意味でミニダムと命名して、商標登録…

阪神淡路大震災で思ったこと!!

1995年1月17日忘れもしない、阪神淡路大震災勃発、本当にびっくりいたしました。特に地震のあと自分達の家が燃えていくのを、水が無いためにみすみす如何し様もなく呆然としている様子がテレビの画面に写されていた。その時、私はどうしても雨水タン…

雨水利用国際会議盛大に開催

1994年、この年に初めて雨水利用国際会議が墨田区で開催され、各国から雨水利用に携わっている方たちも集まり、とても盛大な意義ある大会となりました。すっかり私の頭の中は、我が地元の葛飾区にこの活動を導入できないかと考えるようになりました。そ…

研究熱心な雨水東京国際会議実行委員の方々!

みなさんとあちらこちらの雨水利用の施設を視察し、お話を聞いているうちに、エコロジー的考えかたを学ばせていただきました。ハワイ大学にいき、レクチャーを受け、学生になった気分にもなりました。ハワイに初めて行ったというのに、フラダンスも見ず、ワ…

ハワイ島の雨水タンクにビックリ!!

ハワイ島に移動しました。のんびりとした、大らかな人びとが魅力的でした。民間の家にそれぞれ泊めて頂きました。家の裏に大きなアメリカ杉で出来た120年もたつという雨水タンクにはビックリしました。そのアメリカ杉の伐採が制限されているので、高価に…

ハワイオアフ島の雨水利用は?

オアフ島に着きました。地元の住民110万人と年間600万人からの観光客が訪れる島の水道資源は、ほとんどは地下水だと聞きました。火山がつくった島の地下には水量豊かな水の層が埋まっていて、山の東斜面に多量な雨が降り、東京の約5倍の降水量があって、過…

私と雨水利用との出会い

私と雨水利用との出会いは、1994年の夏に、墨田区で、雨水利用国際会議が開催されるという事を新聞で読み、前々から雨水がもったいない、みんな下水道に流されて、地面に浸透することも出来ず、利用される事もなく、何とかならないか?と漠然と考えてい…

その気になれば何でも出来る、挑戦する気持ちが大事

1986年10月急遽社長業を引き継ぎ、仕事を継続した。その為には今まで空調設備工事を主にやってきたが、これだけでは将来むずかしいと思い、まず必要なる、各資格を取得するための勉強をしながら、仕事をし、またリウマチの治療に週に1回千葉まで通い…

世の中には、まさかという坂がある。

まさかという、私には考えられない事が起きてしまい、すっかり動転してしまいました。人一倍元気で、弱い私の面倒をみてくれて、イタイイタイと甘ったれていた自分が情けなく、自分のことにかまけて主人の健康を本気で瑕かっていたなら、お酒の飲みすぎ、タ…

青天の霹靂という、人生にはとんでも無いことが起きる

約1時間半かかって週1回通うことになりました。バランス健康法という身体に仕組みバランスが整っていないと、いろいろな病気になるということで、初めの頃は車を運転して着くなり寝かせて頂き、番のくるのを待つ状態でした。薬をのんではいけない、必死の思…

病院はこりごり、私のこの病状には合わない!

事情を説明したが注射をした先生は帰られて、居られず、当直の先生が私のカルテをご覧になり、これは強かったなとおっしゃった、が、今更どうしようもなくベットも空いていないという事で、取りあえず家に帰って参りました。もう病院は信用出来ない、へたす…

強い注射をされ本当にもう、死ぬかと思いました。

外に出て、車を運転して、サミットで混んでいる道路、のろのろと走っているうち、突然息が苦しく呼吸が出来ない・・という、状態になって、もう苦しくてどうにもならない、窓を開けたり鼻をかんでも、もう死んでしまう!!死ぬってこんなに苦しの、目の前に…

リュウマチに効く、良い注射があると先生はおっしゃった。

その病院の先生は、その薬も良いけれどこの病院にはもっと効く注射があります。この方が楽になれます。とおっしゃって注射をしてくれました。1ヶ月は楽ですよ、とおっしゃったとうり1ヶ月間今までの痛みが軽減されていました。そしてまた、病院に行きました…

リュウマチの名医と聞き、京都へ向かう

一体何が悪いのだろう、家系的にはリュウマチの人は居ないのに、家相が悪いからか、などと、とても悩みました。近所の内科で痛み止めの薬を飲みつつ、仕事と家事は続けながらある時、雑誌で京都の病院にリュウマチの名医がいらっしゃると言うことで、尋ねて…

リュウマチの痛みと戦い、はたして、その原因は何でしょう

日に日に各関節の痛みが広がっていく、朝起きるのが辛い、体がだるく、寒くてたまらない状態が続きました。リウマチに良いときくと何でもやってみました。でも病状は悪化するばかりで、精神的にも1番辛いときでした。何が原因なのか、その時の寝室は工場を…

慢性関節リュウマチと診断されてしまった。

昭和53年頃から朝起きる時、両手の指がこわばって、あれっと思っているうちにだんだん痛みが出るようになり、足の関節、手の関節が相対的に痛み出してきました。しまいに歩くのも痛くなって、仕事はしなくてはならず、お舅、お姑さんと同居です。イタイイ…

2階建ての木造の事務所とアパートができました。

昭和51年に新築しました。1階が事務所と倉庫、2階は建築費を返すため3世帯のアパートにしました。(有)サンエー住宅設備として主にナショナルの空調工事、設備工事をしておりました。忙しいわりに苦しい生活でしたが、夢いっぱいもって主人と二人で、…

結婚しました

私達年代以前の方々は、多かれ少なかれ自分の意志の他で、困難な経験を経ていらっしゃると思います。その起き上がるパワ−が日本戦後の復興を可能にした原動力になったと思います。 横道に反れてしまいました。 両親は葛飾の高砂に借家を借り材木店を始めまし…

初めて見た日本上陸

私にとって初めて見る日本、博多に着き、上陸し町を見た時に、茶色の家と黒い屋根、屋根がばかに低くい様に感じました。満州では、赤茶色したレンガ造り、床はオンドルという床暖房そしてスト−ブ寒い地方なのに寒かったという覚えはありませんでした。とても…

日本への帰国がかなった昭和21年5月に

日本は、敗戦し父たち日本の兵隊は、ロシア軍に捕まり満州よりもっと寒い冷たいシベリアに連れて行かれるところ、父は貨車から飛び降りて、逃げたそうです。私達家族を探し求め、尋ねあてて、その小学校で、幸いにも奇跡的にも、会う事が出来ました。兄だけ…

小学校の校庭はお墓だらけ

着の身着のまま私はお風呂からでたままで、シミーズ一枚足は転がっていたポックリを履き 母に手を引かれ祖母と3人トボトボと小学校に収容されました。体育館みたいな所に雑魚寝状態で、近辺に住んでいた日本人は皆、此処に連れてこられました。おなかはぺこ…

昭和20年、終戦の日暴民が押し寄せてきた!!

昭和20年8月15日過ぎのある日突然起こってきた。 暴民だ! 暴民が押寄せて来るぞ・・・という声に母は私を負ぶい祖母と共に防空壕へ逃げ込みました。上の方で家の中を物色し壊したりガヤガヤ騒ぎ怒鳴り、判らない言葉で探し回っている様子に親は勿論の…

小学校からのお友達が亡くなった。

小学校からのお友達が癌で亡くなれた。とても切なく悲しい、、生きたくても生きられぬ人もいる、生かされている大切な命を精いっぱい燃焼して、大切に1つでも人様のためになる事を実行してゆきたい、やさしい思いやりの心で過ごせる人生でありたいと、しみ…